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心の底から何かを信じることは、信じない人とのつながりを失うこと

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つい最近、はてな匿名ブログにて「低学歴と高学歴の世界の溝」という記事が話題になった。

 

この記事の象徴的な部分をここに引用する。

 

"そして彼らの大半は、家族も両親もずっと「高学歴の世界」で生きてきた人なので、「低学歴の世界」を垣間みたことがない。

大学進学するのが当たり前だと思ってるし、周りも大卒ばかりなので、実は日本には大卒ってそんなにいないことを実感していない。

パソコンとインターネットの違いが分かるのは当然だし、スマホもタブレットも使いこなす。

飛行機や新幹線のチケットはネットで買うのが当たり前だし、分からないことは全て自力で調べられる。

年に一度は海外旅行が当たり前だし、英語は苦手といいつつも日常会話はそこそこできる。

両親兄弟がちゃんとした常識人で、困ったときには何かしらのアドバイスをくれる。

両親の家に普通にパソコンがあって、孫の様子をスカイプでテレビ電話する。

孫のために両親がお金を湯水のように注いでくれて、当たり前のように援助してくれる。

それがどれだけ凄いことか分かってない。

なので、たまにそんな「高学歴の世界」の奴らにいらっとしてしまうのだ。"

 

 

きっと高学歴の人と低学歴の人とでは価値観も前提も"当たり前"も何もかもが異なるのだろう。

この溝によって二つの世界は分断されて、その溝は想像力では乗り越えられないぐらい広がっている。

価値観の溝。社会を見渡すとところどころに見受けられて、頭を抱えたくなるもの。

高学歴な人と低学歴の人の溝。

男性と女性の溝。

左翼の人たちと右翼の人たちの溝。

 

その溝はマリアナ海溝よりも深く口を開けている。

1 心の底から何かを信じることは、信じない人とのつながりを失うこと

諦めずに努力すれば夢はいつか叶うとか、

人は皆本来的に優しい心を持っているとか、

辛抱強く対話をすれば理解し合えるとか、

たまにそういった思想を持った人にであうことがある。

 

その考え方自体を嫌っているわけではないけれど、私には彼らの言葉をそのまま受け入れることはできない。

努力が無駄だとか、人は皆鬼畜で生きる価値ないとか、人は理解し合えないだとか、

そんな刹那的な思想に比べたらよっぽど建設的だと思うし、なんと言うか価値観がとても澄んでいて純粋だとさえ思う。

 

でも、

そう言った言葉を耳にするたびに、違和感を感じてしまう。

目に見えないけれど確実に存在するガラスの壁を前に、限界がないって言い張るのはどうなのか。

もちろんイチローのように無理だと言われていたことを軽々と超えていく巨人は往往にして現れる。

そんな人たちが歴史を変えてきたし、藤井14段の歴代タイの連勝記録には心が踊らされる。

でも、その限界突破を全ての人に求めるのは酷ではないのか。

 

彼らの言葉には、ついていけないと思ってしまう。

努力ではどうしようもない経験をしたことがないのかとさえ思ってしまうほどだ。

時には、その言葉が相手の為になると信じて疑わない調子で、努力信仰を押し付け説得を試みてくる。

でもその努力の才能に恵まれなかった人は?うつ病で気力さえも奪われてしまった人は?運が悪かった人は?

そんな人たちに「努力をすれば夢が叶う」と言うのは、本人の今を"努力不足で情けない"と全否定していることと同じだと思う。
 

同じように、人間全てに優しい心を求めるのは、優しい心を持って生まれなかった人を追い詰めるだけじゃないのか。

いわゆる毒親で話し合いが破綻してしまう母親を前に、娘に何度も母親との不毛な対話を求め続けるのは、残酷な行為ではないのか。

 

信じられる何かを持っていることは素敵なことだと思う。

それで救われることもあるだろう。

でも、同時に信じる前であれば理解し合えた人たちとのつながりを失うことも意味するのだろうと思う。

人は異なる思想を持った人と、本質的に相容れない。

何かを心の底から信じたら、信じていない人とはもう相容れなくなるのではないだろうか。